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2001年1月27日 カルモナからセビーリャへ


スペインの朝は遅い。私はとにかく早く目が覚めてしまうので、お風呂に浸かる。朝8時でもあたりはほの暗いのだ。9時頃に朝食を食べに例の大広間へと行く。朝日が出はじめ、まぶしいくらいの白い光が窓のガラスを通して大広間へと差してくる。朝食のビュッフェの台にはいつもと同じように生ハムだのが置いてある。この日は質素に (?) トマトとゆで卵、そしてチーズを食べてみる。たっぷりとオリーブオイルをかけて。


市場に並ぶ新鮮な野菜類
朝食を済ませしばらく休憩してから観光開始。まずはパラドールから歩いて 5 分ほどのところにある市場とやらへ足を運んでみることにした。少々早かったらしく、案の定がらりとしていたが、数件の店はすでにオープンしていた。市場は、中央が四角い広場になっていて、その回りを囲むようにアーケード。そこに店が並んでいるという具合だ。野菜、肉、魚など、必要な食材はいっきに手に入る仕組みだ。
市場を後にした私たちはいったんパラドールに戻り、今度は車でカルモナの街の外れにあるローマ古墳 (Necropolis Romana) を訪れることにした。2000 年もの昔のローマ時代のお墓だ。800 以上の遺体が眠るのだそうだ。地図を頼りに車を走らせる。さほど広い街でもないし、比較的分かりやすい位置のようだったので、すぐに分かると高をくくっていたら、分からなかった...。看板がないのだ。
何となく長い壁が続くな、と思っていたところが「それ」だった。車を道路に止めて中に入る。入り口のところに管理人のような人がいた。まずは博物館のようなほうを回ってみる。スペイン語でしか説明が書かれていないために、何のことか皆目検討がつかない。ましてや、この手の博物館はどこでも同じような展示物ばかりだ (と言っては身も蓋もないが)。とにかく外の古墳を見て回ることにした。
外へ出ると先ほどの管理人が無骨な表情で案内をしてくれるようなそぶりを見せた。多分個人の観光客には案内がつくのだろう。スペイン語しか喋らない彼と私とではコミュニケーションは成り立たないが、同伴した友人は多少のスペイン語が分かる。とにかく私たちは彼に付き添って古墳めぐりをした。

象の古墳
ここに 2000 年以上も前の遺体が眠っているのかと思うと不思議な感じがした。おぞましいという感じはしなかった。むしろ、あまり実感が湧いてこないのだ。それでも、遺跡はすばらしく、永遠を意味するという象の古墳にはすっかり魅了された。管理人は寒いからかそそくさと先を急いだ。ほんの 30 分もしないうちにすべてのツアーが終わり、私たちは何となくしっくりいかないが多少満足した感覚で車へと戻る。次の目的地はセビーリャだ。

比較的裕福な家庭の墓らしい

比較的裕福な家庭の墓らしい
セビーリャまでは高速道路を走らせて 30 分。カルモナに比べるとはるかに大きく近代的な町である。
セビーリャには昼前に着くことができた。まずは駅まで行き、そこで翌朝のマドリッド行きの列車の指定席を予約し、チケットを購入する。これで翌朝のマドリッド行きの用意は万端整った。
駅の構内にある (i) (インフォーメーション - information) に行き、セビーリャの地図をゲットする。せっかくフラメンコ発祥の地であるアンダルシアに来ているのだ。フラメンコショーでも見よう、ということで、観光客らしくフラメンコショーの予約を入れる。時間は夕方7時から。ディナー付きのコースもあったが、こういう場所での食事は通常まずいと決まっているので、私たちはショーだけを予約した。
地図を片手に、街の中心部に向けて車を走らせ、とにかく中央付近の駐車場に車を入れることにした。そこからは恒例の歩き、だ。セビーリャは古くは西ゴート王国の首都として栄えた。ガイドブックによると、ジブラルタル海峡を渡ってきたモーロ人に征服されたのは 712 年のことで、それ以降 500 年以上にわたってイスラム文化繁栄の舞台となったとのこと。グアダルキビール川に面した良港として、経済的にも大発展した。コルドバ・カリフ帝国が崩壊した 1070 年には、それまで半島の首府だったコルドバを合併するほどの力をつけていたらしい。ところが、ほかのイスラム勢力同様、レコンキスタの圧倒的な勢いで 13 世紀末ついにセビーリャからイスラム勢力が一掃されてしまう。
ガイドブックにはこうある。「キリスト教徒の手に渡ったセビーリャだったが、その後も新たな躍進の時代を迎える。コロンブスが到着したのはインドではなく新世界であることを証明したアメリゴ・ベスプッチがセビーリャ港から出帆したのを皮切りに、セビーリャは新世界との交易独占権を確保し、ヨーロッパ最強国の地位を確立しつつあったカスティーリャ王国の反映を支える町となった。このようなダイナミックな歴史を背負うだけあって、街は華やかで、スペイン第4の都市としての風格も備えている」
例のごとくクネクネと曲がる狭い道を彷徨いながら、地図を片手に歩きまわる。当然迷ったのだが、幸いにプラザを目印に、自分たちの位置を確かめることができた。市役所のまわりのサンフランシスコ広場 (Plaza de San Francisco) から大通り沿いにカテドラルまで向かう。

市役所の前のサンフランシスコ広場からカテドラル沿いの大通り
に出たところ。少々見にくいが、背景の円柱型の建物には精巧な
彫り物が施されていた。
このカテドラルはイスラム支配時代のモスクの跡地に建てられた。1402 年から約 1 世紀あまりをかくて建設された大聖堂は、スペイン最大の規模を誇る。天井はとてつもなく高い。中は暗く、相変わらずの教会なのだが、とにかくとにかく広い。礼拝堂 Capilla Mayo の聖書の場面が彫刻された黄金色の祭壇の前に腰を掛ける。祭壇を眺めているだけで心が落ち着く。教会にいる、というよりは美術館にいる、という感じの心地よさを感じる。
カテドラルの中からはヒラルダの塔へと上ることができる。ヒラルダとは風見という意味らしい。塔の最先端には高さ 4m、重さ 1288kg のブロンズ像が立っている。風見というだけあって、風を受けるとこのブロンズ像が回転するのだそうだ。そんな強風が吹くのだろうか...。もともとは 12 世紀末、イスラム教徒アルモアド族によって創建された塔とのことだ。塔の高さは 97.5m。その塔の途中 70m ほどのところに展望台がある。カテドラルからは階段ではなく、塔の外側の壁にそったゆるやかなスロープを登っていく。昔はこのスロープを王様が馬で登ったらしい。スロープの内側にところどころ展示物を見ることができる。外側はところどころ小さなテラス付きの窓があり、外の景色を拝むことができる。
ヒラルダの塔からアルカサルが一望できる
展望台からは、南北東西セビーリャの街の姿を拝むことができる。特にアルカサル側の景色は、美しい。カテドラルの足元に広がるアルカサルの広大さを見せつけられる。
塔を下り、カテドラルを出ると、オレジンジのパティオが広がる。相変わらずにオレンジのいい臭いが一面に広がっている。パティオの周りにあるベンチでしばらく休んでから、昼食を取るためにまた少々歩きまわることにした。
昼食は闘牛がらみの展示が店中にされていたレストランでとることにした。レストランはシエスタでかなりの賑わいだ。私たちも歩きづくめで喉がカラカラだった。まずはセルベッサ (ビール) を注文する。喉越しは絶妙だった。

ヒラルダの塔から見下ろしたカテドラルの屋根

天井からは無数のハムが吊る下がっている
料理はというと、出されたのはやはりスペイン語のメニューだったので、何が何だか分からなかったが、店の外に並べられた写真を調べながら、何とか注文した。Caldereta de Toro (ビーフシチューのようなもの)、Flamenquin Serrano (ハムの揚げロールのようなもの)、Espinacas (ホウレン草の炒めもの) 、Croquetas de Jamon (ハム入りコロッケ) の 4 皿を注文した。小皿なので、それほどの量には感じられなかったが、さすがにすべては食べきれなかった。

Caldereta de Toro 
(ビーフシチューのようなもの)

手前がEspinacas (ホウレン草の炒めもの) 、
奥がCroquetas de Jamon (ハム入りコロッケ)

Flamenquin Serrano 
(ハムの揚げロールのようなもの)
たらふく食べて少々眠くなったが、ホテルはここから車で 30 分以上も離れているので、ちょいと戻って昼寝、というわけにもいかない。フラメンコショーまではあと 4 時間ほどあった。とりあえず、マエストランサ闘牛場へと足を運ぶことにする。
闘牛場ではスペイン語と英語のツアーが用意されていた。闘牛場はシーズンオフということで閑散としていた。シーズン中は、熱い太陽の下、円状の舞台を囲む階段式のベンチ型シートに人がへし合い、舞台で赤マントを翻す闘牛士に怒涛のような歓声を送るのだろう。

王族が座る席はアーチの中

シーズンオフで閑散とした闘牛場


グアダルキビール川のほとりで
闘牛場の前にはグアダルキビール川が左右に流れる。川幅はおよそ 70m ほどだろうか。川向こうの家々のテラスに洗濯物が舞う姿が遠目に見える。川はいたって穏やかだ。少々寒いため、長居したい気分にはならなかったが、夏の炎天下には心地よい清涼感を味あわせてくれるのかもしれない。川沿いの遊歩道を歩くと Torre del Oro (黄金の塔) にぶつかる。正十二角形のこの塔はかつて金色の陶器煉瓦がキラキラと光っていたらしい。13 世紀に川の通行を検問するために建てられて、対岸にあった八角形の銀色の塔との間に鎖をかけて、侵入者を防いでいたそうだ。中は小さな美術館になっているようだが、中へは入らずここを通り過ぎて、次の目的地に向かった。
次は、カテドラルの足元に広がるアルカサルだ。ムデハル様式といわれる美しい建物は、残忍王ペドロ王によって 14 世紀に完成された。門を入ると庭をはさむように左右正面に建物が並ぶ。右側の建物から入ってみる。外側はいかにもイスラムっぽいその建物の中は、教会を彷彿させる。壁には、ロマネスク様式のような中世絵画が描かれている。どれも赤や青をふんだんにつかった色鮮やかさだ。人物画が目立つ。
今度はむかって左側の建物へと入る。こちらはイスラムちっくだ。中は暗く、ひんやりとする。開け放されたアーチ型と窓からは小さな中庭が見える。何のために使われた建物か不明だが、ロマネスクとはまったくかけ離れていることは確かだ。古びた壁の緑や赤のシメトリックな色彩が美しい。
そして、正面の建物に入ってみる。入り口は暗い。右手のほうから奥へと進む。この建物は外も中もイスラム調だ。人物画はまったくない。奥へ行くと、いきなり視界が開ける。広い中庭を囲むようにして宮殿が建っている。壁のモザイクもみごとだ。コルドバのモスクやグラナダのアルハンブラを思い出させる。宮殿はいくつかの部屋に分かれている。
  

中央のパティオを囲むようにしてアーチ型の通路が四方にめぐる。
写真は、通路の天井

中央のパティオから日差しが差し込む仕組みだ。
アーチに施された彫刻がすばらしい

宮殿は 2 階建て。突き出ている部分は王の間から出たところの
吹き抜けの天井で、そこだけは 3 階建てになっている

2 階も同じようにパティオ側がアーチの通路になっている

王の間と吹き抜けをつなぐ間

吹き抜けの部分から女王の間とは反対側に歩いたところ。
丸いアーチが美しい
宮殿の端に階段があり、そこを登るとテラスのような場所に出る。大きな池の横には、石のアーチでできた通路がのびる。ちょっと高めの位置にあるため、その通路を歩きながら左右のすばらしい景観を楽しむことができる。宮殿の塀を越え、その通路はみごとな庭園へと私たちを導いてくれる。庭には観光客向けにつくられたのか、迷路もある。ちょうど 150cm ほどの高さの植木を並べて作られた迷路だ。一応興味半分で入ってみた。入り口は分かったが、出口という概念があるものか定かでなかったので、しばらくグルグル回って入り口から出てきた。

池の横の石壁は通路となっている

庭園は広大でオレンジの木が目立つ

庭園側からアルカサルを見たところ
すっかり歩き回りクタクタになっていたが、時間はまだ 5 時半を少々回ったところだった。フラメンコまではあと 1 時間強ある。とにかく喉が渇いたので、アルカサルを出てカテドラルの脇を回ったところにあるカフェに入った。ちょうど入ると同時に雨足が強くなった。時間潰しと雨宿りをかねて、私たちはそこで約 1 時間過ごした。雨は相変わらず降っていたが、フラメンコの場所まではタクシーで 15 分ほど。その頃を見計らい、タクシーでフラメンコショーの会場へと向かう。会場はいかにも観光客相手という感じの成金的な臭いがしたが、まあ仕方ない。舞台のすぐそばにはいすの席が数列に渡って並べられていた。その後ろの一段高くなったところは、ディナー客用の丸テーブルが並べられている。ディナー客たちは、すでにディナーをはじめていた。ここで食べながら、ショーを見るというわけだ。
フラメンコショーは悪くなかった。イメージしたいたのと違うのは、勢いだった。女性のフラメンコはテレビでも数回見たことがあり、あまり予想と離れてはいなかったが、男性のフラメンコには面食らった。とてつもなく大きな音で床を踏み叩くのだ。床が揺れると同時に、ドラムのような音が館内に響く。化粧をしたきれいな女性のフラメンコの踊りと違い、汗が飛び散る激しい踊りだ。約 2 時間のショーは、あっという間に終わってしまった。
クリックするとムービーを見ることができます。
男性のフラメンコのムービーをご覧になりたい場合は、こちらをクリックしてください。 -> 男性1   男性2

夜 9 時少々過ぎ。夕食をとっていなかった私たちは、カルモナのホテルに戻る前にセビーリャの街で食事をとることに決めた。雨は小ぶりにはなったものの、止む気配はなかった。タクシーで市役所の正面にある Plaza Nueva (ヌエバ広場) まで行く。そこからしばらく歩くとレストランが建ち並んでいた。スペインに来てから念願のパエリヤをまだ一度も口にしていなかった(コルドバで食べたパエリヤは抜き、にして) 私は、メニューにパエリヤがある店を探した。そう、アンデルシアがパエリヤの本場でないことを知っていながら...。
入ったレストランの雰囲気は悪くなかった。壁の色も照明の色も、全体的にオレンジかかった家庭的な雰囲気の店だった。私たちはシェリー酒と、サラダ、パエリヤを注文した。パエリヤは、案の定、いまいちだった...。
すでに時間は夜の 11 時をまわっていた。明朝のこともあったので、私たちはレストランを後にして車でカルモナへ向かった。道は渋滞もなく順調だった。が、カルモナを下りるとすぐに、パトカーが数台止まっているのが見えた。とにかくドキドキした。別に悪いこともしていないのだが、何といっても異国の地。こんな夜中にパトカーが数台止まっていればドキドキもする。いきなり止められたかと思うと、警官が怒鳴ったような調子のスペイン語で何かを叫んでる。どうやら飲酒運転の検問らしい。シェリー酒のあとに赤ワインを 1 杯飲んだ私は、幸いにも運転手ではなかった (ほっ)。運転をしていた友人の口に妙なデバイスを押し込めるかのようにして警官はチェックを開始した。何度かやり直して、最終的にオケーが出た。これもほっとした。そのマウスピースのようなデバイスは、土産に持ち帰ることにした ^^;。
ホテルに着いたのは 12 時半頃だった。冷え切った体を温めるために、私は風呂に入り、その後すぐに寝入った。朝は 7 時半にホテルを出る予定になっていた。

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Last Update : 2002-12-30